2011年3月11日。それは今後1000年近く歴史から消えることのない日になりそうです。海外のシンクタンクは、損害額20兆円、インフラの復興には5年の歳月を要するとの推定も発表しました。復旧を復興につなげるために私たちができることは何なのでしょうか。
当社は東京の中心部にあります。3度にわたる長く複雑な揺れによって、棚にあったファイルはことごとく床に落ち、眼下を流れる神田川の水は左右にゆれる洗面器の水のように大きくうねりました。いつ復旧するか知れない交通網と混乱する情報。帰宅を急ぐ人たちで外堀通りの歩道はまるでラッシュ時のホームのようでした。人波はコンビニからまず弁当とパンをことごとく飲み込み、やがてペットボトルの水と電池が消えました。サイクルショップでは自転車を求める人、靴屋ではスニーカーやヒールの低い靴を求める人であふれていました。しかし、このとき店の明かりをつけていた電気が、福島県双葉郡の原子力発電所がすでに津波により冷却機能を失った後のものであることをその人波が知るのはずっと後のことです。
つながらなくなった携帯を手に家族を案じながら家路を急ぐ人たちにもいつもと同じように夜が訪れます。そのころ私たちは確かに何かが崩れてしまったことを心の中で感じていました。いえ20世紀の残照が完全に消えていたことに私たちは改めて気づいたのかもしれません。
復旧には迅速さと応急性が求められます。しかし、復興には継続性と足腰の強さが求められます。被災した方々が復興されるためには、被災しなかった人たちがその間の経済を支えていかなくてはなりません。あと10%、いえあと20%私たちはいつにもまして力強くならなくてはなりません。今一度基礎力を高める決心をして、また連載を進めることにいたしました。
復興のための報道を目にあるいは耳にするたびに、改めてリーダーシップのあり方について考えさせられます。そこで、新スタートの最初はリーダーシップについて考えてみることにしました。今回取り上げる本は、元ITT最高経営責任者ハロルド・ジェニーンが書いた『プロフェッショナル・マネージャー』(プレジデント社刊)です。ここではエッセンスのみをご紹介します。ぜひ手に取って実際に読まれてみてください。特に組織を率いる立場の方あるいは管理職を目指される方には必読の本だと思います。
著者は、「リーダーシップは経営の核心であり、リーダーシップの質こそ、企業の成功をもたらす処方に含まれる最も重要な成分である。」とその重要性を説き、「リーダーシップとは共同の目的のために他の人々をチームとして結束させ仕向ける能力である。」と明快に定義しています。経営は計測ができるのに対して、リーダーシップは客観的に計測できないものであると著者は考えますが、「世の中に天性のリーダーとして生まれついた人々がいるという説に私は必ずしも加担しない。リーダーシップは学ぶことができる。各人の日常の経験を通じて身にそなわり、そのリーダーシップの究極的な性質と特色はリーダー自身の内奥の人格と個性から出てくる。」とし、努力により高められると説きます。その学ぶための基本姿勢は「リーダーシップというものは人生と同様、歩みながら学ぶほかない。」と結んでいます。
企業の発展に最も重要なものとして、著者は「楽しい繁栄の雰囲気を作るのに最も重要な要素は、経営組織の上下を通じて開放的で自由で率直なコミュニケーションを定着させることである。」と説いています。具体的な著者自身の態度として「会議では人々は私にでも他の誰にでも反対することができた。誰かが私と意見が合わない場合、私はキッとなるのを避けるために意識的に後ろにもたれかかるように努めた。私は自分が間違いを犯そうとしているかもしれない時には、誰かがそれを指摘してくれることをいつも望んでいた。」と紹介しています。求められる基本的な姿勢として「社員の提案が間違っていると思っていても、なお彼が正しいことを願う。重要なことは誰が正しいかではなく、何が正しいかだ。」と説いています。一方で、「リーダーシップが発揮されるのは、言葉より態度と行為においてである。チームプレー、相互の忠誠心、労働の尊厳性、公正な報酬制度…言うのはやさしいが、いったん問題が起こった時、その信条を貫き通せる最高責任者がどれだけいるだろうか。」とそれが徹底されていない現実の姿を当時の米企業が沈滞している原因として掲げています。この自由で率直なコミュニケーション政策を守るために、「いわゆる社内攻略なるものをどんな形でも許してはならない。」と著者は説きますが、それは著者の「経営者は、想像力に富んだ考えを歓迎し育成する責任がある。最高経営者は一見とっぴな考えに、率先して予算や資金を割り当てるリスクを冒せる地位にある。」という考えに基づきます。
企業の沈滞・衰退を招く最大の原因として、著者は経営層のエゴチスムを挙げています。「エゴチスムはしばしば失敗への恐怖に根ざしている。たいていの人は失敗とみなすものに対して自分を守る能力を身につけることに多大な時間を費やす。私の考えでは、人はただ失敗したくないと思うだけで、それが何を意味するかを本当には知っていない。だが人々とその職業的生涯は、失敗より成功によって「破滅」させられることが多い。」と説き、そのエゴチスムに陥らないために、自身に以下のことを問うように勧めています。○自分は成功を上手に扱うことができるか。○エゴチスムウイルスから自分を守ることができるか。○追従者のへつらいや称賛を適切な距離を持って眺められるか。○地位の快適な面を、直面させられている不快かもしれないより現実的な問題のために放棄することができるか。
また、一方で虚栄心を戒め、自身の本来の事業に集中することの重要性を以下のように説いています。「成功によって平常心を失った創立者または経営責任者が自分のよく知っている事業から、世間の経済などの無知な分野に関心を移したり、講演をしたりするようになると、売上は平準化し、利益は徐々に降下しはじめる。私の考えでは、こんなふうに社会への貢献にことさら身をやつさなくても、自身の事業をうまく経営し、従業員と地域社会の経営的安定に資するという自己本来の責任を守っていた方が、よほど社会や国のためになっていたであろう。しかし、外部での社会活動は自身に事業に固執することからは得られない個人的自我の充足を与える。これは成功したビジネスマンを陥れる最悪の罠の一つである。」
会社の健全性を維持するためには、マネージャーは会社の数字に敏感でなくてはならないと著者は説いていますが、それは例えば「ビジネスにおける『転回(舵取り)』の要件は、最高責任者に報告される数字の質にある。」からです。
経営層にとって耳の痛い話であるかもしれませんが、以下の記述はたいへん示唆に富んだものです。マネージャーはひとつではなく多数の、それも相互関係のあるおびただしい量の数字を相手にしなくてはならない。彼の仕事は単に市場に売れて利益を生むひとつの製品を生産することではない。私の経験では、製品に関連のある広範な活動をにらみ合わせながらいかにコストを下げ最大限の利益をもたらしうるかにかかっているマネージャーの技量は、会社中から集まってきて彼のデスクを流れすぎる数字によって提供される早期警戒システムを理解し、それに対応する彼の能力に依存するところがきわめて大きい。
マネージャーはすばやく行動し予測とのずれを修正できるようにさまざまな変数の意味を読み取ることを経験によって学ぶ。しかし、そのために支払わなければならない対価(=苦行)がある。数字に注意を払うことは単調で退屈な決まりきったことの繰り返し―苦行である。会社のことをもっとよく知りたければ、それだけ多くの数字を相手にしなければならない。それらの数字の上澄みだけをすくい取るわけにはいかない。それらは読まれ、理解され、考えられ、比較されなくてはならない。そして、プロフェッショナルマネージャーはそれを一人で、それ以外のことならどんなことでも刺激的だとわかっていても、まったく一人きりでやらなくてはならない。たいていの数字は予期した通りで、それがいっそう退屈にさせたとしても、飛ばしたり、集中力を緩めることを自分に許すわけにはいかない。
著者が読者に最も伝えたいこと、この本を書いた動機は、この「気になること―結びとして」の章に集約されています。著者は経験からビジネススクールではなかなか教えてくれない経営に不可欠なポイントとして以下のことを挙げています。
○ものごとを行なうためには会社の機構を通し、近道をせずルールに従ってやらなければならない。しかし、ルールに従って考える必要はない。自分の想像力を閉じ込めるのは大きな誤りである。○本来の自分ではないものの振りをしてはならない。「見せかけ」のために物事を遂行することは自分に跳ね返り、すべても鼻持ちならないものにしてしまう。○紙に書かれた事実は人々から直接に伝える事実とは同一でないことを肝に銘じよ。事実そのものと同じくらい重要なのは、事実を伝える人間の信頼度である。○本当に重要なことはすべて自分で発見しなくてはならない。マネージャーにはストレートな質問に対してストレートな答えを要求する権利があるが、そのためには質問が適切でなければならない。○物事の核心を突く質問をされて嫌がるのは適切な人材でないことを表している。優れた人材はむしろ質問を待っている。適切でない人材を見分けて、適切に処遇するのはマネージャーの仕事である。○決定は、とりわけきわどい決定はマネージャーのみが行わなければならない。
著者の以下の記述は、経営層あるいは管理職を目指す人にとって、基本的な心の在り方を示したものですが、たしかに優れたセオリーも組織もこの「覚悟」があってはじめて生きてくるものです。いつでも読み返せるようにしておきたい文章です。 自分自身に尋ねてみるのもいい。自分自身を成功するに違いないマネージャーに仕立て上げるために多くの快適な面を放棄する決意と高邁な職業意識が自分にあるだろうか?と。もしそうした個人的犠牲を払う気があるならそうすればいいし、不平は言わないことだ。それを望んだのは自分なのだから。そうして一人前のマネージャーになると、必要とされる個人的犠牲に現実に直面することになる。マネージャーの正規の執務時間はおおむね他人のためのものだ。しかし、5時を過ぎると押し寄せる人々とその要求の波はとまる。デスクの上には宿題もある。それからが、自分自身の仕事、自分自身の思考ができる時間だ。もちろんやらなくても構わない。やらないからと言って会社は潰れはしない。発揮すべきリーダーシップは官僚意識に取って代わられ、会社の活力は停滞する。それはきわめて徐々に進行するので気が付くのはよほど敏感な人々だけだ。しかし、本人は心の底の底でそのことに気づかないはずはない。それを選択したのは自分自身なのだから。 私はITTで通常の執務時間の終わりにいつもその選択に直面させられた。時にはため息をついたりもして、私は家に電話をかけ、帰りが遅くなることを告げた。それから上着を脱いで古いセーターに着替え、やおら宿題に取りかかった。そのころ妻は11時半かそれより帰宅が遅くなることを覚悟した。それは私の時間であり、私案と反省と決定事項について考えを決めることに充てた。そんなに時間と努力を注ぎ込むことはばかげていないか、自分はやりすぎているのではないかと疑ったこともしばしばだった。しかし、他にやりようがない、というのが私の不変の結論だった。真のリーダーで、どれほど高価につこうとも自分に課せられた宿題をやらない人間に私は会ったことがない。本当に他に道はないのだ。